明日はきっと日曜日

東京の会社で働く新人UX・UIデザイナー

インターフェースの哲学

留学中に書いた書いたインターフェースについてのレポートを見つけた。

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インターフェースは常に人間とモノの”境界”である。道具が透明になれば、その道具は身体の一部となる。人間はテクノロジーによって身体を拡張する事が出来る。インターフェースの階層を移動することにより、人間は新しい体験や感覚を手にする事ができる。この時、人間の身体は拡張されている。

例を挙げよう。私が自転車に乗っているとき、なにかおかしな事が起きない限り、私はどのように運転するかということを意識する必要は無い。なぜならば、私の身体は自転車全体にまで拡張されているから。この時、知覚とインタラクションは自転車を含む私と外の世界の間で起こる。現在、そして未来のハイテクノロジー時代において、人間の自然なジェスチャーは、インターフェースを違和感無く、無意識に移行する手助けになり、そして人々はそれを受け入れ使う事が出来るだろう。

印象に残ったディスカッションの一つに、先生が事例として認知症のためのプロダクト*1を挙げた時の議論がある。もし、認知症の人が家に帰る道を間違えてしまったときに、機械が「家に帰る道が間違っていますよ。こっちの道に進んでください。」と指示した場合、その機械は正確なガイドとして機能するだろう。しかし同時に、機械は人間にとっての檻になるかもしれない。少なくとも何人かの人はそう感じるだろう。私はこれが機械と人間の関係性の論点の一つであると考えている。人間が機械(またはテクノロジーを)を支配しているということと、人間が機械に支配されていることの境界はどこにあるのだろうか?))))

 

ウェアラブルバイスのマーケットは成長産業の一つであり、テクノロジーの発展と共に、ウェアラブルバイスはますます”普通”になっていくだろう。あなたは様々なウェアラブルバイスを日常的に身につけるかも知れない。時にデバイスはあなたの事をあなたよりも知っている。人々はいつでも取り外しできることから、ウェアラブルバイスを簡単に受け入れるであろう。私は次にくるのはインプランタブル(埋め込み式)デバイスであると推測している。そしてその時、人々は人間と機械の関係性について今と同じ議論を繰り返す。人間が機械を支配することと、機械に支配にされることの違いはどこにあるのだろうか?-ディストピアもそう遠くない。インターフェースの議論は哲学である。

 

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インターフェースの話は哲学。ディストピアも遠くない。

 

*1:

オランダのファッションデザイナー Pauline van Dongenによる作品。スマートテキスタイルのデザイナーMartijn ten Bhömerとの共作。このセーターにはセンサーと導電糸が編みこまれている。主に認知症の老人をターゲットとして製作されている。